貝原益軒の人物像
貝原益軒(かいばら えきけん)
1630年(寛永7年)~1714年(正徳4年)
貝原益軒は、筑前国、今の福岡県で黒田藩の藩医(祐筆とも)貝原寛斎の五男として生まれました。幼少より勉学の誉れたかく、
兄が解けなかった難しい算術の問題を幼くして解いてしまったことで、一家中が「こんなに頭が良くては早死してしまう」と心配したというエピソードが残っているほどの神童でした。
そんな貝原益軒は、はじめに次兄存斎から素読を受け、父親からは漢方医学を学びました。
数えて19歳のとき、初代黒田藩主・黒田長政の嫡男で跡目を継いだ二代藩主・黒田忠之に使えましたが、のちに忠之の怒りにふれ、7年間、浪人となるとこの間、長崎で医学の勉強をして暮らしました。
29歳のとき、すでに九州ではその優秀が有名になっていた貝原益軒は、父の取りなしによって三代藩主となった黒田光之に仕えます。
天才軍師とも関係があった
もともと二代目藩主であった忠之は、戦国屈指の軍師ともいわれた祖父の黒田如水や関ヶ原の戦いで徳川家康の信を得た父・黒田長政とは異なる性格で、非常に傍若無人の浪費家であったという説があり、加賀騒動や伊達騒動とならび「三大お家騒動」ともいわれる黒田騒動の原因をつくった人物でした。
そのため既に黒田藩では、三代光之の時代には藩財政が逼迫しており、光之は厳しい倹約令を出して藩政改革をしなければなりませんでした。
そこで光之は、学問に優れていた貝原益軒を京都へと遊学させ、山崎闇斎、松永尺五(松永尺五の曽祖父は戦国の梟雄といわれた松永久秀だといわれています)、木下順庵といった当時、日本でも屈指の学者とよばれていた人たちのもとで学ばせました。
こうして当代随一の学者から学んだ貝原益軒は、儒学だけでなく医学、地理学、本草学、天文学まで身につけたのでした。
京都での遊学を終え、帰藩した貝原益軒は、さっそく光之の文治主義政策の中心的人物として活躍すると、黒田家の伝承を集めた『黒田家譜』の編纂をも任されました。
また、貝原益軒は自身が発案した『筑前国続風土記』の編纂を甥の貝原恥軒らとともに17年もの歳月をかけて成し遂げると、『日本歳時記』の編纂も行いました。
歳を重ね著述業へ
1700年(元禄13年)、70歳になった貝原益軒は職を退き、以後は著述業に専念します。
伊藤仁斎の影響を強く受けた『慎思録』『大疑録』、博物学の名著といわれる『菜譜』『大和本草』、庶民道徳を説いた『養生訓』『和俗童子訓』などを書き上げ、その著述は生涯で60部270巻に以上にも及ぶものとなりました。
特に今回とりあげる『養生訓』は、貝原益軒が84歳で没するおよそ1年前に書いたものです。
このころ時代は、江戸中期。安定した時代に突入したことで人々の生活も豊かになると、自然と人々の関心は、身体の健康や病気、老化、死といったものへと向けられるようになっていきました。
そうした時代背景のなか、貝原益軒の博識と実体験をもとに書かれた『養生訓』は、その内容の平易さもあって、自らの身体の健康に関心を持ち始めた庶民に受け入れられると、それ以後、現在も広く出版され多くの人々が興味関心を持っている「健康本」といわれる出版ジャンルの先駆けとなったのでした。
参考書籍
『養生訓』岩波文庫
『「日本人の名著」を読む』著・岬龍一郎
『中村天風 心を鍛える言葉』岬龍一郎
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