麻布十番・東麻布の整体・リラクゼーションなら麻布リバースへ

緒方洪庵の人物像,

緒方洪庵(おがた こうあん)

1810年8月13日(文化7年7月14日)~1863年7月25日(文久3年6月10日)
緒方洪庵は、1810年(文化7年)に備中足守藩(現 岡山県岡山市北区足守)の
下級武士の三男として生まれました。

嫡男ではなかったためにいずれは家を出なければならず、また自分自身も病弱であり、
そのために10代の半ば頃から医者を目指したといわれていますが、
特に洪庵にとって衝撃的だったのがコレラの蔓延でした。

当時、コレラは「ころり」といわれるほど多くの死者をだしました。

そのうえ、このコレラに対して当時の日本の医学界の中心であった漢方医たちは、
治すことも予防することもできず、ただただ慌てるだけでした。

そんな情けない医者に失望した洪庵は、自らが医者となり、
人々を病気から救いたいと志をたてたのでした。

少し言葉に御幣があるかもしれませんが、江戸時代の医者という存在は、
多くの場合、貧乏な家に生まれた秀才が、その不幸な境遇から脱却するための
手段とされることが多くありました。

もちろん、素晴らしい医者も生まれましたが、それこそ時代劇に登場するような
不埒な医者もたくさんいました(現代も同じかもしれませんが……)そうした中にあって、
病気で苦しむ人々を救うという崇高で純粋な心で医者になった緒方洪庵は、
稀有な人間だったともいえます。

武士でなく医者として生きた

こうして武士ではなく、医者として生きることを志した緒方洪庵は、
1831年(天保2年)に江戸ででると坪井信道に学びます。

このとき洪庵は、後にともにコレラ治療に奔走した
青木周弼(あおき しゅうすけ)や、
『化学新書』を出版して日本の近代化学の基礎をつくった
川本幸民(かわもと こうみん)らと出会います。

また、『解体新書』を著した杉田玄白にも師事したといわれ、
玄白と前野良沢の弟子である大槻玄沢(おおつき げんたく)の
実質的後継者といわれた宇田川玄真(うだがわ げんしん)からも学びました。

その後は、長崎へとわたり、オランダ人の医師であるニーマンのもとで
本物の西洋医学をも学びました。因みに、この頃から洪庵と号したと伝えられています。

そして、満を持して1838年(天保9年)29歳のときに、郷里の大阪にもどり医者として開業すると、
後進を育てるための「適塾」を開いたのでした。

「適塾」の意味は、先にも少しふれましたが「適々斎」からきていますが、
意味は「おのれの心に適うところを愉しむ」という中国の思想家・荘子の言葉です。

開業したこの年、大阪では大塩平八郎の乱がおき、翌年には悪名高き蛮社の獄がおこなわれ、
世界史をみても翌々年の1840年には、アヘン戦争がおこりました。

このような風雲急を告げる時代にあって緒方洪庵は、
仁というやさしさに裏打ちされながら診療所と蘭学塾を開いたのでした。

洪庵の「適塾」は、洪庵が江戸にいくまでの1862年(文久2年)までの24年間つづけられました。
その間、門弟は3000人を超え、名実ともに幕末日本の「天下一の蘭学塾」の名声を博しました。

また緒方洪庵といえば「適塾」が有名ですが、坪井の門下生であったときにここで塾頭となると、
在学中にいくつもの翻訳本を出版する優秀な人でした。

もっとも学問的な偉業とされるのが1849年(嘉永2年)に著した『病学通論』という本で、
これは日本で最初の体系的な病理学書といわれいます。

くわえて天然痘とコレラの最新治療をおこなったことでも有名です。

まさに新しい時代を切り開く最先端の医療と人材育成の双璧を図らずも洪庵はやってのけた人物だったのです。

「師表」となった緒方洪庵

「師表」という言葉あります。

これは、人の師となり手本となった人のことをいいます。

緒方洪庵は、最高の「師表」を示した人物でした。

緒方洪庵が常日頃、「適塾」の塾生たちに「医者という者は、やさしさこそ一番たいせつで、病気に苦しむ人を見れば可哀想でたまらないと思える性分の人でなければ医者になってはいけない」と教えていました。

福沢諭吉は緒方洪庵のことをこんな風に評しています。

福沢諭吉も敬意を

「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子」
(『福沢諭吉全集』)

福沢諭吉は、ことのほか緒方洪庵を敬慕し、洪庵夫人の八重に対しては
「おっ母さんのようにしている大恩人」だといっています。

さらに福沢諭吉の言葉をかりましょう。

『福翁自伝』において、「私が緒方の塾に居た時のこころもちは、
今の日本国中の塾生に較べてみて大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い、
また思わずには居られません」と、あの人をほとんど誉めないといわれた福沢諭吉が語っています。

どうして福沢諭吉は、これほど緒方洪庵を慕っているのでしょうか。

それはもちろん、緒方洪庵の人徳によるものです。

洪庵は、当時の最先端医療を教える「適塾」にあって、医者の本分として技術、
知識を教えるまえに、まずは人として当たり前の本分を教えました。

それが「仁」の思想、つまり道徳心を養わせたのです。

これは先にも述べた緒方洪庵の12条の教えをみればわかる通りです。
そして、弟子は師の姿をみて育つのです。

あるとき、福沢諭吉が腸チフスにかかってしまいました。ことのき緒方洪庵は、
夜も眠れないほど心配しましたが、自分で直接福沢に処方をしませんでした。

なぜなら、緒方洪庵自身が直接処方すると心が迷い、何を治療したかわからなくなるからで、
「だから病気は診ても執匙は他の医者に頼む」といって、
布団に横たわる弟子の福沢諭吉のまわりをおろおろとしながら見守るだけだったそうです。

福沢は「そのあつかいは実子と少しも変らぬ親心であった」と語っています。

この洪庵の教えに心打たれたのは、なにも福沢だけではありません。

「適塾」最高の秀才といわれた橋本左内は、洪庵の「仁」に心打たれ、
たびたび夜中に塾を抜け出しては、天満橋のたもとにいる乞食たちを無料で診療してまわっています。

左内は、在塾の途中で福井藩主である松平春嶽の政治顧問として呼び戻されますが、
このとき「上医は国を治し、次善は人を治す」と語ったともいわれています。

日本赤十字社をつくった佐野常民も、「衛生」を日本に広めた
長与専斎も洪庵の志を受け継いでいました。

図らずして洪庵は、晩年、将軍の主治医になりますが、
本人はこれを何度も断りつづけましたが、幕府の方が許しませんでした。
53歳のときに、しぶしぶ江戸に出て当時の医師として最高の位にまでのぼります。

普通の人であれば、名誉が、名声が、と鼻高々かもしれませんが、
洪庵は弟に手紙を送り「有難迷惑んだ」と愚痴をこぼしています。

おのれの心に適わず、楽しくないことをしたからでしょうか。

洪庵は江戸にでてわずか1年あまりで急死してしまいました。

享年54歳、明治維新の5年前のことでした。

医者として、師として、人として、これほど優れた人物がいたのです。
同じ医療にかかわる者として、また後進を育てる者として、そして人として緒方洪庵の生き方を
見習いたいと思うのでした。


※この記事の参考書籍

『教師の哲学』著・岬龍一郎

『聴診器―私のようこそ、ようこそ』著・馬場茂明

『新訂 福翁自伝』岩波文庫

モバイルバージョンを終了