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中村天風-我を救うもの我なり(4)

中村天風―消極的な言葉は悪魔の言葉(3)続き

宇野千代は、「私はもう書けない。私にはもう書くものがない」「詩想が枯渇してしまったのだ」と思い悩んでいました。そんな大スランプで自暴自棄になっていたとき、恐らく藁にでもすがる思いだったのでしょう。知人の紹介で天風の話しを聞くという巡り合わせが。宇野千代はそのときの天風とのやり取りを『天風先生座談』という著書の中で次のように書き残しています。


天風から教えを学んだ人々



さらに天風から教え学んだ人をご紹介します。天風から教えを受けた門下生は百万人ともいわれていますが、その中でも特に天風を「哲人」と称して、その教えに感銘をうけたのが日露戦争で当時世界
最強ともいわれたバルチック艦隊を撃破して、劣勢な日本海海戦を勝利に導いた

明治の海軍元帥・東郷平八郎です。東郷は、天風から「心身統一法」の極意を教わると「日本海海戦のとき、もしもこの方法を知っていたならば、敵の艦隊の沈没する一部始終をゆっくりと見られたはずでしょうな」と驚愕したといいます。

これは天風の教えが単なる空想的、宗教的なお題目ではなく、軍人東郷からみても実践に役立ち得る効果があったことを証明しているようです。


中村天風の生い立ち



最後に、宇野千代や東郷平八郎らが師と仰いだ天風ですが、本名を中村三郎といい、明治9年(1876年)、柳川藩(現 福岡県柳川市)に生まれました。天風が生まれた中村家は、戦国時代に豊臣秀吉から「その武勇、鎮西第一」と称され、東の本多忠勝(徳川四天王)ととも武勇の誉れ高き勇将・立花宗茂を祖とする藩主の立花家と遠縁にあたります。

そのためでしょうか、藩祖・立花宗茂を流祖とした随変流を幼少の頃から学び、その奥義を極めました。因みに、天風という号は、最も得意とした随変流の天風(あまつかぜ)という型からとったといわれています。

幼いころからイギリス人に英語を学んだことから、進学した修猷館(福岡県立修猷館高等学校)での英語の成績も抜群だったそうです。

柔道部でも活躍していた文武両道の生徒でしたが、練習試合の遺恨から過って生徒をひとり殺めてしまうと学校を退学処分となると、明治25年(1892年)に旧福岡藩士たちが中心となってで構成されたアジア主義をかかげる玄洋社の頭山満のもとに預けられました。


玄洋社の豹


 するとここでも頭角をあらわし「玄洋社の豹」と畏怖され、16歳の頃に勃発した日清・日露戦争の際には、軍事スパイとして満州へとわたると、ときに馬賊と刀を合わせ、ときに鉄橋を爆破し、ときに夜間行軍する歩兵部隊に斬り込み「人斬り天風」との異名で恐れられると、

ついに敵に捕らえられ、銃殺寸前のところを間一髪、味方に救われたという、まるで昭和映画に登場するようなアウトローのごとき、斬った張ったの世界にいたのでした。

事実、

鞍馬天狗』の主人公・倉田典膳や新国劇で上映された『満州秘聞』の主人公は天風がモデルであったと伝えられています。ただ、こうした斬った張ったの世界で築いたものが天風を「哲人」と呼ばしめたわけではありません。

天風を天風たらしめているのは、やはり本人も予想することができなかった己の運命を「我を救うものは我なり、神を頼らず」の精神で打破し、「心身統一法」という天風哲学を確立したからに他ありません。日露戦争から帰国した天風は、急速に進行する結核に侵され、「死」の宣告を受けます。恐らく若かった天風も相当に思い悩んだことでしょう。

しかし、

死病に侵されながら心の救いをもとめてアメリカ、ヨーロッパ、インドと病の体をひきずるように世界を遍路するのですが、天風の「人間は、肉体を自由にできるのに、心はどうして自由にならないのか」という問いに著名な知識人とよばれる人々は答えられませんでした。


瀕死の状態で出会った、カリアッパ師


  


余命短い天風の身に、虚しく月日が流れていきます。すでに死を覚悟したとき、カイロで一人の老人と出会います。その老人は天風をみるなり

「死にたくなかったら、オレについて来い」といったのでした。

恐らく半ばヤケクソ、半ば藁にもすがる思いだったのではないでしょうか。天風はいわれるままについていくと、そこはヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴークという村でした。この老人こそ、天風の運命の変えるインドのヨーガの大聖人であるカリアッパ師だったのです。

 ゴーク村で2年数ケ月の修行のすえに天風は、ヨーガの奥義といわれる「宇宙と人間の冥合(めいごう)」を会得し、「心身統一法」という天風哲学を確立したのでした。こうして修行によって死病を克服した36歳の天風、体が健康になると娑婆への未練が募りました。日本に帰国する途中の上海で孫文の政治顧問となると辛亥革命にも参加、帰国すると事業をいくつも展開し、日本実業界に大きなな名を残すこととなりました。

 こうして死を乗り越え、実業界として成功し、恐らく一般人が想像し欲することのできる欲望のほとんどすべてを手にした天風ですが、富や地位、名誉が集まれば集まるほど心には患いばかりが去来し、満たされない。すると43歳になった天風は、なにを思ったのか、突然、それまでもっていた財産や名誉の一切合切を捨てさり、単身独力で救世済民のためだと天風会を設立するのでした。

財界で名を成した天風が、そんなことをしたのですから多くの人々が「どこかおかしくなったのか?」「金持ちの道楽だろう」といった風にしか受け取らなかったのではないでしょうか。

それでも天風は、上野公園や芝公園にでかけると2、3人の聴衆の前で辻説法を繰り返す毎日を送りました。余談ですが、この経験があったからこそ大富豪ロックフェラーを「人間が出来ていない」と一蹴したのでしょう。

こうして地道な活動を経ていくなかで、当時の内閣総理大臣・原敬と出会う機会を得ると原が「この人は大道で講演をさせておくような人ではない」と絶賛。


この噂が広まると、先の東郷平八郎をはじめ天風のもとには政財官の大物たちが集まりました。そして昭和43年(1968年)92歳で亡くなる(天風会では帰霊というそうですが)まで、それこそ百万人あまりの門弟をもつこととなりました。

山本五十六や松下幸之助、稲盛和夫といった人々も天風に教えを請うたそうです。

私の些末な文章では中村天風の教えの1000分の1もお伝えしきれておりません。ただ、昨今、行き過ぎたポピュリズムやディストピアをはじめとしたネガティブな言葉が蔓延し、多様性が認められ難い価値観が蠢く社会にあっては、天風の言う「消極的な言葉は悪魔の言葉」として受け取り、「積極的な精神」をもって己の心を鍛え、「主観的でありながら絶対的な確固たる自己の価値観」となる指針、つまり「幸福を創りだす人」を目指してみてはいかがでしょうか。


※この記事の参考書籍

『中村天風 心を鍛える言葉』

著・岬龍一郎

『中村天風 銀の言葉』
著・馬場茂明

『ほんとうの心の力』
著・中村天風

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